about

明治4年、札幌本府の西側・薄野に、田の字型・2丁角で官営の遊郭が置かれました。
開拓という過酷な作業に従事する男たちの、足止めをする為に作られた薄野遊廓。
開拓は進み、街は広がり、遊郭の周りには、お座敷を持つ割烹料亭が建ち並び、
お座敷芸者を抱える芸者の置屋も、薄野の場末にできました。

建物の所有者に「ここは、置屋だったのではないですか?」と尋ねると、
家主は「よく分かったね。」と仰有った。
現存する建物で、札幌・北海道のそうした歴史を語れる建物は、
殆ど残っていないのではないでしょうか。

鴨々川の畔にこの建物が建ったのは、大正の末期から昭和の一桁代。

街が広がるにつれ、花街・薄野遊郭は札幌の中心部となってしまい、
家族持ちの定住者が増えるにつれ、その存在は疎ましいものへと変わりました。
鴨々堂のすぐ裏にある豊水小学校は、児童数が2000人を超えるくらいのマンモス校になってしまい、歩いて数百メートルしか離れていない所に市立高等女学校まで出来てしまう程に「街」が大きくなっていたのです。

貧しくて身売りされた娘たちと、学校に通う生徒たちの年齢は、左程変わらない。

醜業婦とされた彼女たちは、大正7年~9年にかけて、川の向こうの白石という
リンゴ園の跡地へ追いやられてしまった。
そこへ向かうには、当初、東橋・豊平橋と二つの橋しか架かっておらず、
開業しても、交番はおろか公衆トイレも無かった為、集客には苦労したそうです。
そこで白石の有志たちは寄付金を募り、橋をつくりました。
生きるための執念というか、力強さ。
北海道の発展を支えたのは、名もなき労働者たちの功績があったからこそだと思います。
因みに、大正十二年の六月に札幌初の民衆から生まれた橋は、
『南一条橋』と名付けられています。

明治以降に作られた北海道の「花街」の歴史は、消し去りたい記憶なのかもしれません。
日々繰り返されるスクラップ&ビルドの中で、街の記憶はどんどん消し去れていきます。
記憶を喪失すると生きていくことはできないか。
答えはNO。記憶がなくても生きることは出来ると思います。
けれども、失敗から学ぶという機会失ってしまいます。
負の歴史や民衆史も全部含めて、街は出来ている。

約90年、札幌の変遷を見てきたこの建物。
あと、何年維持できるかわかりませんが、可能な限り保存出来ればと思います。

鴨々堂 店主

<